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私は長い間、サラリーマンとして主に人事の分野の仕事をしてきました。
一般的に言われる意味での学者ではありませんでしたが、ずっと哲学を研究し続けてきたと思っています。
哲学と言うと、古今東西の哲学者の文献を調べたり学術的な論文を書いたりするイメージが浮かんでくるのではないでしょうか。
サラリーマンとして生きてきた私にとっての「哲学」とは、そのような学問ではありません。
では、私にとっての哲学とは何か?
「より良き人生を歩むための根源的な問い」
これが私にとっての哲学ですが、有名な哲学者が探究してきたことと同じです。
ニーチェやサルトルなど偉大な哲学者達は、学問として哲学を学んだのではなく、自らの問いに対する自らの答えを苦悩しながら探究していました。
つまり、哲学者とは、本当は「学者」ではなく「探究者」であると思います。
では、私が自らに投げかける「問い」とは何か?
それは、「人間とは何か?」という問いです。
その問いへの答えを探究してきた私にとっての哲学の師は、実の父でした。
私の父は、もうかなり昔に他界しましたが、私が小学生の頃からアルコール依存症になりました。
身体と心がぼろぼろになるまで酒を飲み続けては入院し、退院してしばらくすると酒を飲み始める事の繰り返し。
それが原因で、中学生の時に母は妹を連れて離婚し、私は父と二人で暮らし続ける事になりました。
私は頼れる家族もなく、生活保護を受けながら断続的に入院するアルコール依存症の父をケアしながら通学していました。
高校を卒業して大学の哲学科に進学はしましたが、経済的にかなり厳しい状況に追い込まれ一年で中退し、父の借金や奨学金の返済、アルコール依存症のケアなどの生活苦に追われ、定職には就けず日雇いの肉体労働などで食いつないでいました。
私も、その頃は、心身ともに疲れきってマイナス思考に支配されていました。
結局、父は他界するまで酒を断つことができませんでした。
私の父を、一般的な「善悪」の視点で評価してしまえば、「悪い父親」になってしまうかもしれません。
しかし、あえてこのように問うなら、父は私の「哲学の師」になるでしょう。
「父が、その精神の病との苦闘の生涯を賭けて、息子に伝えたかったことは何か?」
もちろん、父は私に何かを伝えるために生きていた訳ではないでしょう。
しかし、私は、その問いを立てて父の人生や育った家庭での出来事を振り返ることを通して、「人間に対する洞察」を深めることができました。
父は、人の心の影の側面を、まさに命を懸けて見せてくれました。
孤独や貧困に苦しむ姿。
薬物(アルコール)に溺れ、廃人のように堕ちていく姿。
自分で自分をコントロールないことに苦しむ姿。
取り戻せない過去を悔やみ続ける姿。
無力な自分を、自分で責め続ける姿。
これはアルコール依存症がもたらす患者の姿です。
世間では弱い人間だと思われるかもしれません。
しかし、誰の心の中にも、そのような「弱さ」が潜んでいるのではないでしょうか?
人の心の中にある弱さや、人生の階段から堕ちていく紙一重の危うさ。
そのような人の「弱さ」を見つめることで、自らの人間観を磨き人との関わりに活かし、人生をより良きものにできる可能性を高められると思います。
「人間とは何か?」
その問いに対する、完全な正解は誰にも出せないと思います。
他の哲学者がどんな理論を説いたかを知ることは、手掛かりに過ぎません。
本当に大切なのは、自らの人生に自ら意味を与え人生をより良きものすることです。
京都には「哲学の道」という名所がありますが、誰にとっても自ら人生の歩みが「哲学の道」だと思います。
いわゆる「学者」になるのではなく、そのような現実の泥にまみれた「哲学の道」を歩むことこそが、本当の意味での哲学の研究ではないでしょうか。
たぶん私など一生かけてもエライ哲学者にはなれないでしょうが、きっとこれからも、時には泣き時には笑いながら、決して終わることのない「哲学の道」を歩き続けていくことでしょう。