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なぜ私は死ななければならないのか?その日までどう生きればいいのか?

f:id:YOU50:20200105082907j:plain※画像はイメージです

なぜ、私は死ぬのでしょうか?
どうせ死ぬのに、生きる意味はあるのでしょうか?

どんなに幸せになったとしても、どんなに家族を愛していても、いずれは死によって引き裂かれる日が必ずやってきます。

その現実を思うとき、なぜ、私はそのような残酷な宿命を背負わされたのかと深い悲しみを覚えます。

なぜ、私は死なければならないでしょうか?

それは、「大いなる命」を生かし続けるためだと思っています。

ここで言う「大いなる命」とは、宇宙の進化のプロセスそのものです。

わかりやすく考えるために、もう少し狭く捉えれば、「生き物全体の命」と言っても良いかもしれません。

例えば、恐竜という種は絶滅しましたが、生き物全体では、色々な種が昔から今まで生き残り、生命そのものは途絶えることなく続いています。

「大いなる命」が生き続けるためには、私という個体の「小さな命」を捧げなければならない。

それが、現時点までの宇宙の進化の理なのです。

科学的な説明は控えますが、単細胞生物から始まった生命が、より複雑で多様に進化していくためには、「個体の死」を発明しなければならなかったのです。

もちろん、私の「小さな命」も、宇宙の進化の過程で生み出されたものです。

私たちは、自分の意志で生まれてきた訳ではありません。
そして、自分の意志で死と言う宿命を背負ったわけではありません。

だから、私の命も、本当は「大いなる命」の一部であり、「生きている」のではなく「生かされている」存在なのです。

もしそのような考え方に納得できるなら、私も不死であると思えるようになり、少しは「小さな命」の死を迎える怖れが軽くなるかもしれません。

では、「大いなる命」を意識した時、生きる意味をどう考えればいいのでしょうか?

もし、人間が進化の流れの中にいるとすれば、何かを次世代に遺すということでしょう。

私なら、このように答えます。

自らが理想とする「人としての望ましい生き方」を、自らの人生で試行し、その成果を「大いなる命」に還元する。

違う言い方をすれば、「生命力の可能性の限界を試し、他の人の参考になるように、人生の実験データを遺す」ことかもしれません。

明治時代のキリスト教指導者であった内村鑑三は、「後世への最大遺物」という講演録で、多くの青年たちに感動と励ましを与えました。

後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

内村鑑三は、特別に恵まれた一部の人だけでなく、誰でも後世に残せる最大の遺物は、「勇ましい高尚なる生涯」であると言いました。

内村鑑三は、その「勇ましい高尚なる生涯」について、こう語っています。

この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にでも遺すことのできる遺物ではないかと思う。

私も、内村鑑三のこの言葉に励まされます。

より多くの子孫を残すとか、ピラミッドのような壮大な墓を残すとか、そういうものではなく、自らの「生き様」こそが、人間としての「後世への最大の遺物」であり人生の意味であるならば、私も含め誰でも価値ある人生を送れることになるでしょう。

人は誰でも、他の誰かとの関りの中で「生かされて」います。

そして、ある人が言ったことや行ったことは、身近な誰かに何らかの影響を与えることでしょう。

ある人が言ったことや行ったことを、他の誰かが良いと思って真似するかもしれません。
もちろん、その逆もあるかも知れません。

先に「人として望ましい生き方」と書きましたが、絶対的な正解は無いと思います。
また、自分なりの答えを得たとしても、それはその時の「仮説」に過ぎず、違う答えに変わっていくかもしれません。
しかし、自らの「生き様」で、自分なりの理想を体現することはできるでしょう。

そして、たった一人であっても、誰かが自らの「生き様」のワンシーンでも見てくれたなら、大げさな言い方になるかもしれませんが、人類の進化に影響を及ぼすことができたと考えて良いと思います。

自分も他者も「大いなる命」の一部です。

そうであるならば、自らの「小さな命」の可能性を最大限に発揮することが、「大いなる命」の進化を方向付けることに繋がっていくはずです。
その影響は、本当に小さなゆらぎかも知れませんが、少なくともゼロではありません。

内村鑑三は、こう言っています。

われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。

内村鑑三は、まさにこのような人生を送った人として、今でこそ日本の歴史に名が残っていますが、生きていた当時は政府から非難され黙殺されていました。

無名で無力であったとしても、この世の片隅で、自分なりに望ましい生き方をしようと願い、身近な人と共に生きるならば、死と引き換えに「大いなる命」をより輝かせることができると思います。

私の父は、アルコール依存症になり、その病を克服することができないまま他界しました。
しかし、その「生き様」を目の当たりにしたことで、私は成長できたと思っています。
たとえ貧しく苦しい生き様であったとしても。

私も、いつ死ぬか分からない、本当にちっぽけな存在だと思います。

それでも、この世界の片隅で這いつくばりながら、自らが理想とする「人としての望ましい生き方」を、自らの人生で試行し、その生き様が「大いなる命」に取り込まれることを願っています。

最近は、毎朝、一日分の命をギフトとして受け取っているように思えてなりません。
もし、その翌日も、一日分のギフトを頂けるなら、それは本当に有難い奇跡だと思います。

いつか、そのギフトがもらえなくなる日が確実にやって来ます。
だからこそ、今日の一日分のギフトを大切に使い切りたい。

人として望ましい生き方とは何か?
それを実現するための有効な方策は何か?
その方策を実行した結果はどうだったのか?

本当にいつまで生きられるか分かりませんが、私には、その問いに答えるための「実験」を精一杯楽しみながら、死ぬ間際まで続けていくしか無いように思います。

愛する人々や世界との恐ろしく残酷な別れを受け入れざるを得ないのであれば、せめて、その代償として、自らの生命力の可能性を最大限に活かしきった生き様を、「大いなる命」の中に刻み込みたいと思います。